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<<   作成日時 : 2013/04/13 01:02  

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日本ハリストス正教会教団東日本主教教区発行「播かれた種 2009春号」掲載

神さまによって創造された私たちは、領聖によってその本来の姿を回復する。これが「救われる」ということです。領聖は「諸罪の潔め・諸病の癒し」と言われますが、これはパンとぶどう酒が見た目も香りも味もパンとぶどう酒のままでありながらハリストスの尊体血となったように、私たちが私たち自身でありながら神の子・神の家族として回復されるから可能なのです。
しかし、私たちの多くが領聖していながら、再び罪を犯し(この罪とは法的な犯罪の他に神の子らしからぬ「愛の欠けた思い・行為」も指しています)、病を得てしまうこと(この病とは肉体の病とともに霊の病・不健全さも指しています)も現実です。それは領聖の恩寵が不十分だったのではなく、泉の水は豊かであっても私たちが汲む器が小さいからです。私たちはしばしば自分のためにしか恩寵を求めず、さらには自分の都合でしか神さまを愛し隣人を愛そうとしないからです。
私たちの教会の基盤は、「聖体礼儀・領聖」にあります。ハリストスは「私は天から降ってきた生きたパンである。…私の体を食べ、私の血を飲む者は私に居り、私もまたその人に居る(イオアン福音書5章)」と言われ、一つのパンを弟子たちに分け与え「これは私の体」と言われ、一つの杯に注がれたぶどう酒を分け与え「これは私の血」と言われました。
私たちが聖体礼儀の祈りと共に神に捧げたパンとぶどう酒は、主・神・イイススハリストスの尊い体血そのもの・御聖体となって私たちに贈り返されます。私たちは御聖体を伏し拝むばかりでなく、食べることによって神をこの体の中に入れることができます。これ以上ない形で神さまのいのちを頂き、神さまと一致します。
私たちはハリストスの体となった一つのパンを分かち合い、ハリストスの血となったぶどう酒を一つの杯から分かち合います。それは私たちが一つの家族となった・一致したということです。私たちは神の家族として一致したから、救われるのです。ハリストスは「心から神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい。他の全ての教えはこの二つにかかっている。」と言われましたが、領聖はその雛形であり究極の形です。神の息を吹きかけられて活ける者となった私たちは(偶然にでも、科学は生命そのものを作れたことがありません)、神と一致することによって救われます。隣人を愛することは、唯一のものを分かち合う家族となることによって完成するのです。

改めて領聖について説明したのは、教会における全てのことは聖体礼儀・領聖を目的としているからです。信仰教育を行うことも領聖するためです。
信仰教育は、宗教的知識の伝達に留まってはなりません。「祈祷のどの場面で十字を書くか」から詳細な聖書研究、高度な神学など全ての知識は「心から神を愛する・自分と同じように隣人を愛する」ためにあります。
「愛」はハリストス降世以前からこの世の人々に尊ばれ、現在でもほとんどの人々がとても大切なことだと考えています。ですが約2000年前、ハリストスは愛の極限として「一致」を教え、正教会はこれを完全に継承してきました。「神が人となったのは、人が神となるためである(聖大アファナシウス)」などという一見大それた確信、「あなたの敵を愛しなさい(マトフェイ5章)」などという究極の愛は、神さまの働きかけなしに私たちが持つことはできませんでした。
しかし今日、私たちはしばしばハリストスが教えた「一致」を忘れています。私たちは神さまそのものである御聖体をいただきながら、寛容で情け深く、高ぶることなく、何事にも耐える神さまの愛に一致しようと思っていません。自分が癒しを得ることを望みますが、それが隣人の空腹・渇き・寒さ・孤独を癒すことのできるようになるためだとは思ってもみません。どんなに敬虔な気持ちで祈っていると思っていても、自分だけを愛する者、自分が愛したい人を自分の思う愛し方だけで愛したいとしか望まない者は、一致としての領聖を「自分のためだけの領聖」と勘違いする者です。
私たちは誰も、一人では完全ではありません。罪を犯す前のアダムについて「人は一人でいるのは良くない」と神さまは言われました(創世記2章)。私たちは完全な者となったから隣人を愛せるのではなく、隣人を愛するうちに完全な者になりえるのです。神さまと一致した人が、どうして神さまが家族として創った全ての人を愛することができないでしょうか? かけがえのない一つの御聖体を分かち合う人が、どうしてこの世の物を自分だけの物だと独り占めできるでしょうか?
聖体礼儀・領聖の理解を深めることは、完全な愛の心を呼び覚ますことです。たとえ知識がたくさんあっても領聖と結びついていなければ完全な愛は知られることがありません。しかし領聖していても、自分のためだけの領聖といったこの世の知識のままでいるならば、完全な愛の贈物をぼろぼろこぼしていることになります。できるだけこぼさないようにするため、私たちはできるかぎり信仰教育を受けるのです。

信仰教育の始まりは、家族のうちにあります。これはそれぞれの家庭であると同時に、教会という神さまの家族ということです。
信仰を学ぶということは、言葉を学ぶことに似ています。幼児は「あ、い、う」と発声する時の口の動かし方を練習してから話し出すわけではなく、日本語文法を理解してから書き出すわけではありません。家族をはじめとする周りの大人が話しているのを聞いて、自然に話し始めます。
信仰も同じで、子供は「教会=神さまの家族」として一緒に領聖し、家庭で家族が祈る姿を見て信仰を持ち始めます。家族が領聖する者に相応しい愛をもって人と接するのを感じて信仰を身につけていきます。歴史に残る文豪・大詩人も家族の日常の会話を聞くことから始めました。教会の聖人も家族の日常の信仰のなかで育まれていったのです。子供をとりまく私たち自身の、日常の信仰が礎であることは間違いありません。
子供が聖堂に行く時に教会学校が行われていれば参加させるのが良いですが、年齢に応じて聖堂の中で何か奉仕ができるともっと良いと思います。燭台のローソクを整理したり、聖パンを運んだりしながら、皆で力を合わせて聖体礼儀が勧められていくこと、皆で領聖する喜びを知っていくのだと思います。
家庭では、聖堂で行われる様々なことと無関係だと思わず、生かしていくことが信仰教育になります。家庭の食事は、家庭の聖体礼儀です。どんなに忙しくとも週に一回は家族揃って食卓を共にするように心がけたいものです。聖パンだけが神さまのくださる食べ物でなのではなく、あらゆる食べ物が神さまによって創造され、わたしたちの生命を養う日用の糧です。食事の前に自分だけお菓子などを食べたりしないこと。できるだけ食卓の用意を手伝うこと。食事中はそれぞれがテレビや新聞・携帯など他のことをしながら食べるのではなく、会話は食事を皆で一致して分かち合うに相応しいものとなるようにする。感謝の心を忘れず、茶碗にごはん粒が残らないようきれいに食べること。聖堂での聖体礼儀の心得と、家庭で皆でいただく食事の心得は、同じことなのです。


司祭 ステファン 内田圭一

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